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3.11の被災者になりたかった

東日本大震災が起きたのが、2011年3月11日。

実家のある岩手県沿岸北部地方に帰省したのは、地震から4ヶ月後の7月だった。

 

行こうと思えば、もう少し早い段階で行く事は出来た。

実家は津波の被害に遭わなかったが、親戚の家々をかなりやられた。国道の通行止めが解除されればすぐに行くつもりであったが、母は「町中が片付くまでは、来ても仕方ない。来なくていい」と繰り返していた。

けれども「私は、行かなければならない」という思いに、何故だか囚われていた。

当時はまだ短歌に出会っていなかったから、故郷で起きた事を書き記しておきたい、ただそれだけだったと思う。

 

岩手に帰省しました。
 
4泊5日。
13年ぶりの実家。
 
今回の帰省の最大の目的は
津波で被災した地域を見て回る事。
見てどうなると言われたら何も言えないけれど
何が起きたのかをテレビではなくこの目で確かめたい。
ただそれだけの理由。
 
それから
姪が出産をしたので、赤ちゃんを抱っこしたい。
弟が結婚したい人がいるというので、会ってみたい。
 
そして
もしもできるならば
長い間、私の中で否定し封印していたものを解き放ちたい。
原因不明の体中の痛みは、心の痛みと主治医が言う。
だとしたら
もう、逃げずに向き合って治したい。
 
たくさんやりたい事のある今度の帰省。
岩手県は広いし、私は車の免許がないし
痛みと不眠も悪化して
平均睡眠時間4時間のハードスケジュールでした。
 
 
弟の車に私と母の三人で
磯鶏、藤の川、津軽石、山田地区と見て回りました。
それはもう何もかもがぶち壊され流された残骸。
 
言葉が見つからないので書けません。
ただ
復興復興とか
頑張れ東北とかいうけれども
あの状態でどこをどうやって復興したらいいのか
途方もつかない地元の人達は
頑張れとか言われてもどうにもならないだろうな…と思った。
 
 
2011/07/19

 

 

tanpopotanpopo.hatenablog.com

 

 

tanpopotanpopo.hatenablog.com

 

 

震災の後に切られた路地裏の梅の香りを探してしまう

たんぽぽ      

 

 

東日本大震災の事は、今までに何度も書いている。

でも、その当時には書けなかった事が、いくつもあって…

 

のんびりとした田舎の駐在所勤務だった義理の兄は、あの日を境に遺体安置所での仕事を余儀なくされた。

そのような場所で、人が正気でいられるはずがなかった。

義兄からもっと話を聞きたい。けれど、義兄は決して話さないだろう。

私は姉と、努めて明るく振る舞うので精一杯だった。

 

弟の車で、被害の大きかった海岸沿いを走った。

そこは、身震いのする光景で、まるで爆心地のようだった。

私は車の窓を開けて、携帯で写真を撮った。

撮った写真を見ると、携帯には目の前の景色とはまるで違うものが写っていた。

違う。こんなんじゃない。

その写真を削除して、また撮ったけれども同じだった。

撮ったり消したりを数回繰り返して、私は写真を撮るのを諦めた。

「この光景は、撮れない」

母と弟にそう言うと、私は出来るだけこの光景を目に焼き付けよう、肌で感じようとした。

遠くでは震災観光のグループが割れた防波堤に上り、はしゃぎながら記念撮影をしていた。

「馬鹿みたい。海に落ちればいいのに」

それでも母は「いいの。あんな観光客でも来ねえば、この町は終わりだから」と言った。

東京に戻ると、夫と娘が待ち構えるように

「写真見せて見せて」

と言ってきた。

「写真ない」

「えっ?撮ってないの?」

「携帯で何度も撮ってはみたんだけど、ちゃんと撮れなくて消しちゃった」

「どうしてデジカメ持って行かなかったの?」「1枚もないの?1枚位ならあるだろ?」

「1枚もない」

信じられないと口々に夫と娘が言った。

私の気持ちをいくら言葉で言い表そうとしても、このふたりには決して伝わらないだろう。

私は、あの絶望の光景に立っていた時と同じように、寂寥感でいっぱいだった。

 

一年後、二年後と里帰りしては町を見て回り、友人達と会った。

どこへ行き何を見ても、復興は遅く感じられた。東京に戻れば、誰もが震災を忘れている。被災地はまだ、被災したままなのに。

 

あの日全て踏みしめながらショベルカーは波打ち際をゆっくり歩む 

たんぽぽ

 

 

 

震災を忘れるなと言わんばかりに、兄弟姉妹や友人から私の元へたくさんの震災写真集が届いていた。

当時あれほど写真を見たがった夫と娘も、もう関心がなさそうなので、私はそれを二人に見せずしまいこんだ。

プロカメラマンが写す震災写真は、あの記憶を呼び起こすのに充分なほどのリアリティがあった。

私は年月が経つほどに、あの時の映像や写真に恐怖を覚えていた。

一番辛いのが、高校時代に自転車通学をしていた海沿いの道路を、大きな波がのみ込もうとする一瞬を捉えた写真だった。

私は今でも、あの道を走る事が出来ない。

震災が起きたのが、高校時代でなくて良かった。

当時の私は、通学途中に車に轢かれた猫がいたとか、目の前で雀がカラスに喰われただけで丸一日さめざめと泣くような人だったから、被災していたら津波にのまれなくても気が狂っただろう。

 

それでも私は(批判を恐れずに言う)被災者になりたかった。

被災地からは震災文学が生まれ、次々と発信されていた。

私も被災者になりたかった。そこから本物の詩歌が生まれるのならば。

 

震災から何年目の事だろうか。私はネットである文章を目にしたのだった。

それは、宮城の人だったかも知れない。地震の後停電し、地上が真っ暗闇になった。早春とはいえ東北はまだまだ真冬の寒さだ。その寒さと暗闇の中、空は信じられないほどの星がまばゆく輝いていた。

それを知った時(私も見たかったな)と思った。

宮古は、どうだったんだろう?

気になると確かめずにはいられない私は、友人に聞いてみた。彼女は当時宮古で被災したが、大きな被害に遭ってはいなかった。

「星ねえ、どうだったかしらね、あの時…」

「地上の電気が全て消えていたら、もの凄いものが見られたんじゃないかと思うの」

「そうだとしても、皆それどころじゃなかったのよ。空を見るよりも、皆は下を向いていたんじゃないのかな」

「言われてみれば、そうかも」

「タンポポのそういうところがもう、他所の人の考えだよね」

 

いつでも友人は正しくて、私にはっきりとものを言う。

私は、平手打ちをされたような気がした。そう、私はあの防波堤で記念撮影をしている側の人間だった。

 

被災地の悲しみを共有出来ず、ただ傍観する事も無関心でいる事も出来ない私は、7年過ぎた今も所在なさげな歌をただ詠むだけである。

被災者になったつもりで傷ついたふりなどしない。してはならない。

 

 

出て行ったひとは震災語るなと言われたことが津波のように

被災して灯りなき夜の満天を我もこの目に収めたかった       

たんぽぽ