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スナック花水木⑥

勤めていた会社の終業時刻は、17時だった。

しかし社員達は、定時を過ぎても誰も帰ろうとしない。システム開発の未来を語り合ってみたり、パソコンを分解してまた組み立てたりして、遅くまで会社に残っていた。皆が仕事と、この会社が好きなのだった。

夜のバイトを始めるまでは、私もその輪の中にいた。退勤のタイムカードを押した後、出先から戻って来た社員にお茶を淹れたり雑談をして、何となく会社に居残っていた。

でも今は、バイトのない日でも17時になると会社から飛び出していた。

「お先に失礼します」

「あ、ちょっと待って」

エレベーターが着くのを待っていると、同期の社員に呼び止められた。

「今日はこれから、いつもの喫茶店でミーティングだってさ。来月から始まるプロジェクトの…」

「悪いけど、私、帰るから」

「きっとそう言うだろうって、タンポポには特別にケーキセットをつけてくれるらしいぞ」

私は、大きくため息をついた。遠くから課長が、私達の様子を伺っているのが見えた。

「行かない。ケーキで釣ろうって魂胆がミエミエ」

「何だかタンポポ、前と変わったな」

「えっ?」

その言葉に私は動揺したけれど、平静を装いながら聞いた。

「変わったって、どこが?どんな風に?」

「だって、以前なら喜んでたじゃないか。あそこのケーキ、好きだっただろう?」

「今も、好きだよ。でも私、もうすぐこの会社を辞めるんだ。だから、次のプロジェクトの話を聞いても仕方ないの」

「会社を辞めるって?」

「そう。社長にも近いうちに言うつもり。そういう事だから宜しくね。じゃあ、お疲れー」

私は急いでエレベーターに乗り込んだ。

「なあ、もしかして課長と、何かあった?」

ドアが閉じかけたので、私は「開」ボタンを押した。

「それ、課長にも聞いてみたら?タンポポと何かありました?って」

「そんなの、聞ける訳ないだろう」

「何もないって、課長は言うから。じゃあね」

 

 

翌朝の課長は、見るからに焦燥していた。

私が辞めると言った事を、同期が報告したのだろう。

同じ部署にはもう、その噂が広まっている様子だった。

話さなければならない時期だから、皆に知られても別に構わない。

それにしても、課長は一日中落ち着きなくタバコを吸っていた。山のような吸い殻の灰皿を見て、他の社員も

「うわぁ、課長。今日は吸い過ぎじゃないですか?」

と、驚くほどだった。

午後になり、意を決したように課長が話しかけてきた。

「タンポポさん、今日の仕事が終わったら、少し時間くれる?」

「すみませんが、予定がありますので。お話なら、今どうぞ」

「いや、ここでは…」

「私の退職の事でしたら、社長に直接話しますから」

課長は腕時計をちらりと見た。そして社員達に「少し外に出てくるから、宜しく頼む」と告げ、私を外へと促した。

 

連れて行かれたのは、会社から離れた場所にある喫茶店だった。

「一体どういうつもりなんだ?」

「えー?勤務中なのに、ここで痴話喧嘩ですか?」

「どうして急に心変わりしたのか、教えてくれないか。僕に悪い所があるなら直す」

「しつこいなぁ。課長のせいじゃないって、何度も言ってるのに…」

「納得がいくように、理由をちゃんと説明して欲しい」

「ふぅん。あなたのここが嫌い、ここがダメって並べたらいいの?それに何の意味があるの?」

「頼むから、真面目に話し合おう」

「話し合いなんかしたくない。だって私はもう、やり直すつもりがないんだから」

「何故だ…一度は僕の、手中に落ちたというのに…」

私はそれまでずっと逸らしていた視線を課長に向けて、笑顔を見せた。そして、目を見据えながら言い放った。

「何か勘違いしているようですね。私が一度でも、あなたのものになった事がある?」

 

課長はこみ上げてくる感情を押し殺し、絞り出したような声で言った。

 

「お前、他に男が出来たんだろう?」

 

その言葉に私は、身の毛のよだつ思いがした。そして、立ち上がってグラスを掴み、課長の顔に水をかけてしまった。

「たった今、心の底から嫌いになった」

私は喫茶店を出ると、会社には戻らずに駅まで走った。

 

明日、退職願を出そう。

 

自分の浅はかさが、情けなかった。

私はどうして、結婚したかったのだろう。

「女の価値は、クリスマスケーキ」と言われていた時代。

自分に何の価値もないと知っている私は、イブまでに自分を高く売ろうとしたのかも知れない。

 

2回目のデートに課長は、友人達を連れてきた。

3回目のデートは、母親が一緒だった。

私への評価を、他の人に委ねたのだと思った。

それからも、いくつかの違和感が少しずつ積み重なって、次第に息苦しさを感じるようになっていた。

まるで、木の枝を矯める時のように、心がきしきしと音を立てた。

そんな、自分でもよくわからない感情を、いちいち説明したくない。

ただ、それだけだった。

 

ごめんなさい。

本当に悪いのは、私。

 

 

 

スナック花水木に出勤すると、マーテルの社長がご機嫌で飲んでいた。

「ミホ、俺の子を産んでくれ。頼むよ」

それは、マーテルの社長が酔った時の、いつもの口癖だった。

でもその言葉は、社長が知らない事とはいえ、今のミホさんを傷つけてしまう。

でもミホさんは、まるで意に介さない様子だった。

「嫌よ。そんなの。私、お嫁に行けなくなっちゃう」

ミホさんが膨れっ面をして見せた。

「はっはっは、そうか、ゴメンゴメン。じゃあ、ユキはどうだ?

俺の子を産んでくれるかい?」

「私だって嫌ですよ。社長には奥様がいるんだから、奥様に産んでもらって下さいね」

「うちのは、二人産んでるよ」

「じゃあ、もういいじゃないの」

「それがさ、どっちも男なんだよ。俺はね、どうしても女の子が欲しいんだ」

「ワガママねえ。男でも女でもどっちだって、可愛い我が子でしょう?」

「何だよ。わかった。もういい」

マーテルの社長は拗ねたような顔をして、ソファにもたれかかった。このくだりは、もう何回も繰り広げられた攻防戦なのだった。

 

「そうだ、ユキは泳げるかい?」

「水泳ですか?平泳ぎなら、少し泳げますけど…」

「そうか、よし。じゃあ俺とデートしてくれ。一緒にプールに行こう」

「えーっ?」

「あら、いいじゃない。ユキちゃん、行って来たら?」

(そんな、ミホさん!)と、私は心の中で助けを求めたが、ミホさんは素知らぬふりをしていた。

「今度の土曜日は、空いてるかい?」

土曜日は夜の仕事があったが、昼の予定は何もなかった。だけどまさか、マーテルの社長とデートをするなんて…

どうやって断れば、角が立たずに済むのかと思い悩んでいると

「じゃあ、決まりだな。土曜日の午後1時に、そこの駅前で待ってるから」

「社長、それ冗談ですよね?」

「本気だよ。1時だから、絶対に忘れるなよ。俺は、ユキが来るまで帰らないからな」

私があっけにとられているうちに、マーテルの社長は会計を済ませてしまった。そして帰り際にも

「ユキ!土曜日の1時、駅前な!」

と叫び、帰って行った。

 

「マーテルの社長ったら、飲み過ぎるとヤンチャな子供みたいねぇ」

ミホさんとマスターが笑っている。

「笑い事じゃないですよ。さっきのあれ、冗談ですよね?」

「どうかしら?本気だなんて言ってたけど、明日の朝にはケロッと忘れちゃってるかもね」

そうでありますように。

でも、もし冗談ではなかったら?

私が約束を破って、その日店にいたら、マーテルの社長は不愉快だろうな。

だからといって、店を休むわけにもいかないし…

この日から私は、土曜日をどうするか、そればかりを考えていた。