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スナック花水木⑤

雨の気配がして、タエさんが扉を開けてみると、ザーザーという本降りの音が聞こえた。

「うわぁ、すごい雨!これじゃあお客さんも来ないはずだ。今日は開店休業~!」

雇われマスターは、厨房の奥で居眠りをしていた。普段からあまりやる気のない人だった。

「ビールでも飲もうっと。私が奢る。グラスを3つ頂戴」

ミホさんは冷蔵庫からビールを取り出しながら言った。

「飲もう飲もう。こんな時は飲まなきゃやってらんないっての」

ミホさんとタエさんが、ビールを一気に飲み干した。

「ああ、美味しい。ねえ、さっきの話だけどさ、ミホちゃんは彼と結婚するつもりはなかったの?」

「結婚…したいと思ってたよ。私達、高校生の頃からずっと付き合ってたの。

でも、赤ちゃんが出来た時、アイツあんまり嬉しそうじゃなかった。ていうか、困り果ててた」

「そっか…」

「アイツ、今回は諦めてくれって。そのうち結婚したら、赤ちゃんを産めばいいって。そう言われたのが許せなかった。

だって、また出来るかどうかなんて、解らないじゃない?

出来たとしても、その子は堕ろした子とは違う子なのに。

上手く言えないけれど…ああ、もう無理って思った」

 

ミホさんの寂しそうな表情を見て、タエさんが話題を変えた。

「そうそう、前から聞いてみたかったんだけど、ユキちゃんは彼氏いるの?」

「…いませんよ。彼氏なんて」

「またぁ、本当はいるんでしょう?」「隠さなくたっていいじゃない」

「本当に今は、いないんです。少し前まで私も、彼と一緒に暮らしていたんですけど…」

私は仕方なく自分の話をした。

19歳の頃から3年間、同い年の彼と暮らしていた事。

その間ずっと、先が見えない不安でいっぱいだった事。

職場の上司から、結婚を前提に付き合いたいと言われ、気持ちが揺らいだ事。

そして、彼に「出ていくけど、いい?」と聞いたら「好きにすれば」と言われて、行く当てもないのにマンションを飛び出した事などを

ふたりに促されるままに、ぽつりぽつりと話した。

 

「何だ何だ、この店の子は。男運がないのばっかりだな!」

「タエさんは、どうなんですか?」

「私も男運がないのよね…と言っても、ここ何年かは恋愛どころじゃなかったけど」

タエさんには、年下の彼氏がいた。でも、小料理屋をやっていた母親が倒れ、店と母の看病に追われたのだった。

彼氏との仲は自然消滅し、昨年母親を亡くして、店もたたんでしまったのだと言う。

 

「男って、若いのはダメだね。浮わついててさ」

「本当に、そう思う」

「私ね、うちのお客さんでは、キタノさんがいいと思うんだ」

「えーーっ?」

「渋くて素敵じゃない?それにあの人ね、44で独身なんだって」

キタノさんは、スナック花水木の開店当初から通う常連客だった。いつもビシッと決めたスーツ姿で店に現れた。

私は、気難しいキタノさんが苦手だった。

機嫌がいい時には気さくに話すのだが、お通しが気に入らないとか、ほんの些細な事で文句を言った。

まるで自分が、この店の特別な客であるかのように振る舞っていた。

キタノさんには必ずタエさんか、ミホさんが付いた。

アイちゃんが入ったばかりの頃、何か失礼をしてキタノさんに怒鳴られたらしい。だからアイちゃんは「キタノさんは嫌い」と、いつも陰で言っていた。

「あー私、キタノさんの妻になりたいな」

タエさんが、夢見るように言った。

「タエちゃんって、変わった趣味ね」

「タエさん、うちはお客様との恋愛は禁止ですよ?」

「わかってるけど…そうだ、ユキちゃん。私のキタノさんを奪わないでよね?」

「奪いませんよー。全然タイプじゃないもの」

「ならいいけど。キタノさんたら『最近のユキは、いい感じになって来た』なんて言ってるから心配で…」

 

「あーあー、ひでぇ雨だった。びしょ濡れだ」

噂をすれば…

飛び込んできたのは、キタノさんだった。

「あらぁ、キタノさん、いらっしゃーい。こんなに濡れて。ユキちゃん、おしぼりおしぼり!」

「何だよこの店は。客が誰もいねぇじゃねえか」

「キタノさんが口開けですよ。ほらほら、後ろもびっしょり。水も滴るいいオ、ト、コ!」

タエさんは甘い声で話しながら、キタノさんの背中を甲斐甲斐しく拭いた。

 

 

さっきまでの二人の話に、私は虚しさを感じていた。

タエさんはあの性格だから、いつも洗い晒しの無地のシャツにパンツ姿が多いのだと思っていたが、実際には着飾る余裕がなかったのだ。

ミホの着ている洋服も、照明の下では艶やかに華やいで見えたが、近くで見れば安っぽい物だった。

私達は一所懸命に、瑞々しく咲いた美しい花の振りをしていたけれども、所詮はチープな造花なのだった。

造花は造花。

どんなに真似したって、本物の花にはなれやしない。

そう思うと、とても惨めな気持ちになった。

 

ずいぶん前に、私も「妊娠したかもしれない」と、相談したことがあった。

「産めばいいんじゃない?」

彼はいつものように、事も無げに言った。でも結局、生理が少し遅れただけだった。

もしもあの時、本当に妊娠していたら、私達はどうなっていただろうか。

彼の本音はきっと、ミホさんの彼氏と同じだと思う。

結婚したい人は、結婚しようと言ってくれない。

だからといって他の人と結婚するのは、何かが違う気がして踏み出せなかった。

 

 

 

 

その人は、最近訪れるようになった客だった。

いつもひとりでふらりとやって来て、一時間ほど飲んで帰っていく。

少し強面なので、最初は近寄りがたかった。

でも実際は気さくで穏やかな人で、すぐにこの店に馴染んでいった。

ボトルキープはほとんどの客がオールドかリザーブだったが、この人は、初めて来店した時に

「この店で一番高い酒を」と言ったらしい。

店に置いてあるお酒で一番高いのは、マーテルコルドンブルーだった。

ネームプレートを付けるのに「お名前は?」と聞いた時だけ「いいんだよ、名前なんか書かなくたって」と怒っていた。

だから本当の名前が解らないまま、店では「マーテルの社長」と呼ぶようになった。

本人も、その呼び方を気に入っている様子だった。

 

マーテルの社長は、40代後半くらいで白髪混じりのおじさんだった。

仕事は「貿易関係」と言い、名前を聞けば「だから、名前はいいってば」と突っぱねていたが、ある時にはぶっきらぼうに「スズキだよスズキ」と、明らかに嘘を言った。

店に来る時はいつも普段着だったから、近くに自宅があるのだろう。気前が良く、誰が付いても「何でも好きなものを飲め」と言った。

だから私は、マーテルの社長の席でだけジュースを飲んだ。他の子達も社長のブランデーをいただいて

「わあ、すごくいい香り。美味しいー」と喜んでいた。

マーテルの社長は、あまりお喋りをしなかったが、女の子を名指しして、歌を歌わせるのが好きだった。

私も「ユキ、テレサ・テン歌って」とか「ユキ、次は欧陽菲菲な」等と言われるままに、何曲も歌った。

あまり歌い慣れていない曲ばかりで上手く歌えなくても、マーテルの社長は目を細めて聴いていた。

 

 「マーテルの社長は、日本の人じゃないと思うな」
 
 マスターが、客が誰もいない時に言った。

「だからどうという事ではないけどね。マーテルの社長が来てくれると、売り上げがグッと上がるから助かるよ。うちで一番いいお客さんだ。

ユキちゃん、マーテルの社長がもっと来てくれるように営業して」

「営業?どうして私が?」

「マーテルの社長はね、ユキちゃんがお気に入りらしいんだな。

ユキちゃんの出勤する曜日を聞かれてさ、それからは、その曜日ばかり来てるから、絶対にそうだよ」

「そんなの…ただの偶然ですよ。私なんか、マーテルの社長が気に入るわけないもの」

 

そう、きっと、ただの偶然。

私をご贔屓にしてくれる客など、今までひとりもいなかったのだから…