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母と娘

5年前、私はあるエッセイの公募に応募した。

その作品は、あえなく落選した。優秀作品に選ばれたエッセイは、家族の絆がテーマの素晴らしいものだったから、私はたいして落胆もせず応募した事すら忘れていた。

1年が過ぎ、新聞社からのメールが私に届いた。

あの時の応募作から数作品を選び、特集記事を組むのだという。その中に私の作品が選ばれたとの事で、取材依頼のメールだった。

私は大変驚き、また少しは嬉しく思ったけれども、丁重に断りの返信をした。

すると、今度は担当者から電話がかかってきたが、私はそれも適当な理由をつけて断った。

特集記事ではそれぞれのエッセイを載せるのではなく、家族や友人等、人と人との繋がりをテーマに編集するという。

私の応募作には、就職して親元を離れる娘と、その寂しさを堪える自分自身へのエールを綴っていた。

取材など、受けられる訳がない。

娘は当時、鬱病と診断されて休職し、自宅で療養中だった。

翼を広げて広い世界へと飛び立ったはずの娘は1年も経たないうちに傷ついて、あっけなく巣に戻り、毎日暗い部屋でひとりうずくまっているのだから。

2度目の電話で、私は仕方なくこの事を打ち明けた。

担当者は電話の向こうで沈黙し、少ししてから「わかりました」と、電話を切った。

 

しかし数日後、また電話がかかってきた。

娘の現状には一切触れずに、エッセイが書かれた当時の状況を軸にして「母と娘」の記事を書きたいと、熱心に懇願された。

それならば、娘がこれ以上傷つく事はない。私は折れて、取材を引き受ける事にした。

待ち合わせの駅に現れた記者は、若くて小柄な女性だった。

たどたどしく挨拶をした後「名刺入れがない」と大慌てでバッグをガサゴソとかき回していた。

私は、勝手にイメージしていた新聞記者との違いにあっけにとられながらも、娘と同い年くらいかな等と考えながらそれを見ていた。

取材はカフェで、コーヒーを飲みながら話をした。

女性記者は、私と娘の親子関係や、私と私の母との関係について解るようなエピソードをいくつも聞き出そうとした。

その手法は稚拙であったし、私がセラピストと何度も話した事と同じなので、私は少々辟易していた。

話しているうちに、東京の親元を離れて関西で仕事をする娘と、関西から上京して働く自分とを、この女性記者は重ねているのだと気付いた。

女性記者はそれを認め、だからこそ特集記事で書き起こしたかった事、何度断られても諦めきれなかった事、現在も母親との関係に悩んでいる事を話し始めた。

「今朝も電話で母と話して、最後にはケンカになってしまって。いつもそうなんです」

目の前に座るこの人は、生真面目で大人しそうで、親に反抗など、とても出来なさそうに見えた。

きっと、子供の頃から優秀な良い子だったのだろう。親の敷いたレールの上を歩いてきたのだろう。成人して、遅れてきた反抗期だろうか?うちの娘のように…

 

何時間も話しているうちに、何の話がきっかけか解らないが、つい大きな声を出してしまった。

「全く、娘なんて、自分ひとりで大きくなったつもりでいるのよね!」

 

それは、世間一般の娘という意味ではなく、もちろん女性記者の事でもない。自分の娘に向けた言葉だったのに…

女性記者の目から、みるみるうちに涙が溢れだし、彼女は暫くの間泣いていた。

私は慌てて「ごめんなさい。あなたの事じゃないのよ。うちの娘に言ったのよ」となだめたが、女性記者は解っていますと何度も頷きながら

「母に、言われたような、気がして…」

と泣きじゃくった。

 

「母と娘って、本当に難しいね。娘は、こんな私が鬱陶しいのだと思う。私も、自分の母が煩いと思うもの。

でもね、貴女のお母様が煩いのは貴女がとても大切で、強く思っての事だから。それだけは解って欲しい。

また、電話してあげて欲しいな」

こんな事しか言えない私に、女性記者はぼろぼろ零れる涙を拭いながら、うんうんと頷いた。

 

 

「学校というコンクリートの塊にいれられて」より引用

 

 

 

時が経って娘は、まだ少し不安定ながらも職場復帰して、何とか元気に働いている。

あの女性記者は今、どうしているのだろう。

母親との関係に、折り合いをつけられるようになっただろうか。

今も取材中、泣きだしたりしていないだろうかと、余計なお世話だろうけれど、時々思い出している。