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いつかはいなくなる、親のこと⑥

家に戻る前に家電量販店に寄って、掃除機を買った。
実家の掃除機が古くてゴミを吸わないので、いくらかけてもきれいにならないのだ。
ちょうど特売の品があり、すぐ決めたので大して時間はかけていない。それでも家に帰ると、母はやきもきしながら私達の帰りを待っていた。
チーズバーガーの皿が空になっていて、聞くと「食べた」と言うが、本当に食べたのはカラスだったかも知れない。

私達は母も車に乗せて、昼食を食べに行く事にした。
姉が「お寿司が食べたい」と言い、私はお寿司は昨日も食べたが、姉が食べたいのならと同意した。

すると母が「食べさ行く前に、ちょこっと姉さんの家さ寄ってぐべ」と言い出した。
姉さんというのは昨夏に亡くなった伯母の事で、葬式に出なかった私にお線香をあげて欲しいと言う。
「行くのはいいけど、突然押しかけたら迷惑では?」
「大丈夫。線香あげたら長居しないですぐ帰っぺし」
伯母の家には伯父もいない。従兄も50代で急死した。
今、伯母の家には従兄のお嫁さんがひとりで住んでいる。だから母は私の帰省でもダシにしなければ、伯母の家に上がりづらいのだった。

私がまだ小学生の頃、伯母の家は市の中心部にあった。私は学校の帰りに時々寄り道をした。
伯父も伯母も勉強や躾にとても厳しく、本当は二人をあまり好きではなかった。
けれども、この家にはたくさんの金魚と鳥がいた。私は九官鳥のキューちゃんと遊ぶのが楽しかった。
伯父は私が来ると「おお、タンポポや、丁度いい時に来た」と笑顔を見せたかと思うと「伯父ちゃんの腰を踏んでけろ」と言って、床にうつ伏せになった。
私の体重が具合いいからと、長時間踏ませるのでウンザリしていた。
そしてたまにはお小遣いもくれたが、50円玉たったの1枚だけだった。
私の名前を付けたのがこの伯父で、会う度に「伯父ちゃんが付けたんだ。いい名前だろう?」と恩着せがましく言われるのも嫌だった。
町なかではなく山の方に、息子夫婦が立派な家を建てた。教育熱心に育て上げた息子は、地元の長者番付にのるほど成功したのだった。
母の実家も父の本家も親戚は皆どこも裕福で、大きな家に住んでいる。
実家も母の商売が順調だった頃は裕福な部類だった。父が、お金を湯水のように賭け事に使いさえしなければ。
私だって賭け事の楽しさは知っている。でも賭け事は遊びで、遊ばれてはならない。
ギャンブルに狂わされた人生の末路ほど、惨めなものはない。

私は初めて、従兄が建てた家に上がった。
ちょうど従兄の娘達が帰省中で、家族水入らずの所にお邪魔したのに快く仏間に通してもらった。
仏壇に飾られた伯父、伯母、従兄の写真は思い出のままの姿で、胸が締め付けられ正視できなかった。
私がお線香をあげている間に、姉は従兄のお嫁さんと世間話をしていた。
従兄の娘達がお茶の用意をしてくれたがそれを辞退して、私達はそそくさと車に乗り込んだ。

「せっかくお茶ッコ出してくれたのに、悪かったかもね。」
「立派な家だったね。」等と言いながら寿司屋に向かった。

私は、お線香をあげられたので安堵した。
昨夏にお葬式に出なかったのは自分で決めた事とはいえ、心の底で澱となっていたのだ。

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姉が行きたいという寿司屋が臨時休業で、2日連日で運の悪い私達だった。
ここがダメならあそこと姉は車を走らせた。港町だから寿司屋は何軒もある。


すると母が
「おめさんだちさ、おどっつぁんの彼女の家を教えっか」と、突然言い出した。
「何なの?気持ち悪い。やめてよそんな話、聞きたくもない」
姉が気色ばんで声を荒げ、私は呆気にとられていた。
母は「この通りを真っ直ぐ行った信号の所の、右の家」と言った。
信号が青なので停まることなくすうっと通過したのと同時に、その家の玄関が開いて女の人が出て来た。
私が面白半分に「今の人が彼女だったりしてね」と言うと
「あれが、そうだ」と、事もなげに母が言った。


人生は、幾つもの偶然の積み重ねだと思う。
とはいえ、こんな偶然があっていいものだろうか。
予定していなかった、伯母の家への訪問。休みと知らずに向かった寿司屋からの道すがら、ほんの数秒間に父の愛人を目にするなんて。
その一瞬は、まるでフィルムをコマ送りしたかのように数枚の静止画となって、私にインプットされた。
けれどその女性はうつむいていたので、顔の造作や表情までは解らなかった。ただ、愛人をイメージするような華やかさはなく
「ただのお婆さんだったね」と私の感想を言った。

父がその「彼女」を伴って、盛岡の競馬場で派手に遊んでいた。それを見た誰かが、ご丁寧にも母に忠告をしたのは、私が高校生の頃だ。
母はとても悔しそうに、私に何度も愚痴った。父と母がその女の事で口論するのも見てきた。
私は、父が外で遊ぶのが楽しくて不在になるならば、その方がいいと思っていた。
愛人といっても父は半身不随の身体だから、その相手が本気とは思えない。腹違いの兄弟が生まれる可能性もないだろう。
父と母は長い間不仲なのに、嫉妬して怒るなんておかしいと、高校生の私は母に言った。

「嫉妬はしねぇどもさ。そんでも腹は立づべぇが。おれが寝ねえで稼いだぁ金ふん使ってけづがって」

それはそうだと思うけれど、だったら早く別れればいいだけの事。
別れればいいのに、何があろうと別れない。この堂々巡りを何十回、何百回と今まで繰り返して来たのだ。

姉は当時、寮生活をしていたので、この事を知らなかったらしい。
車の中で「ああ気持ちが悪い。本当に不愉快」と、繰り返していた。



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「三陸丼」と名付けられた海鮮丼がとても美味しかったので、姉は少し機嫌を直した。
その店には茶碗蒸しが無かったので磯ラーメンも頼み、3人で分けて食べた。

私はお気に入りのケーキ屋でケーキを3つ買い、1つをホテルの部屋に持って帰り晩ご飯代わりに食べた。
その夜はいよいよ台風が接近し、雨風が窓に強く打ちつけた。
やっと眠りについたところにスマホから大きな音が鳴り、飛び起きた。
川の水位が上昇して避難勧告が出たのだった。でも、このホテルの場所なら安全だと思う。
実家の母には、姉が付いているから大丈夫だろう。
危険区域が広がる度に緊急速報が何度も鳴ったが、スマホの電源を切るわけにはいかなかった。

もしも地震が起きて、津波警報に気づかなかったら…
ここは津波で漁船や家や車が流れてきて、大勢が亡くなった町なのだから。




帰省3日目。

緊急速報が鳴る度にスマホ画面を見ていたので2、3時間しか眠れなかったが、朝には雨がやんでいた。

ロビーで新聞の歌壇欄をチェックした。毎日新聞に私の短歌が掲載されていた。岩手日報は没だった。
少し気を良くしていたら、姉が迎えに来たのでチェックアウトをした。

このホテルのロビーには、自由に飲めるコーヒーが置いてある。
こういうサービスのものは美味しくないと決めつけて、今まで一度も利用しなかった。でも姉と一緒に飲んでみたら、美味しいコーヒーだった。



姉の車で父の見舞いに行き

今日、東京に戻ります

と、紙に書いた。
父は表情を変えずに「ああ、そうか」と言い、手をバイバイと振ったので私もバイバイした。
さっさと帰れと言わんばかりの、いつものようにあっけない父との別れ。


実家から駅まで姉の車で送ってもらった。
私が実家から出ていく時に、これがまるで今生の別れであるかのようにするのが、母とのいつもの別れだった。


私は、確信していた。


父は、まだ死なない。

母も、まだ死なない。

これが今生の別れなんかじゃないと。


これは、終わりへの始まりなのだ。
いつか必ずやって来る、看取りの時。

その運命の日までは、きっと途方もなく長いのだろう。そして、その日々は想像を絶するものだろう。
例えこの先どんな事が起きても、全部受け入れなければならないと思っている。


全ての偶然は運命であり、その運命が必然なのだとしたら。







END









<追記>


帰省から約2ヶ月、このエントリーを書いている間にも状況がどんどん変わっていき、文章が追い付かない。
父はこの間に3回、転院した。
一時は食事も摂るようになり、リハビリにも意欲を見せた。かと思うとまた厭世感に浸るなど、とても不安定らしい。
内臓にも異常が見つかり、退院の目処は立たない。
そしてこの2ヶ月の間には、義父もケガで入院した。こちらも老々介護でかなり深刻な状況。
ふたつの家族ネタを現在進行形で、延々といくらでも書けそうだが、関係者(特に姉)が許さない。
それに、私の一族のサーガなど面白くも何ともないと気付いたので、ここで最終章とする。



誰もがいつか必ず、命が終わる。
私は、親よりも先に死なない事だけを目標に、何とかして生きて行く。