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私の志集

たまにブコメをくれるメガネの人が書いた記事を読んで、切なくなった。

身を立て 名を上げ やよ励めよ - はてな村定点観測所

世代的にも心情的にも私はメガネの人本人よりも、御母堂様の方に感情移入してしまい、とても切なかった。

早く錦を飾ってあげて欲しい。

ううん、錦なんかどうでもいい。元気に生きているだけでいい。

そして貴方なりの頑張りで日々を過ごし、時々でいいから母を、故郷を想ってくれればきっと喜ぶのだと思う。

 

 

 

「私の志集」

 

サイバーメガネ(id:cyberglass)さんが「私の志集」を知っていた事、かつてそれを買った事があるという記事を読んで、心臓がヤバイくらいにどくんと鳴った。

だいぶ前になるが「私の志集」について何か書かれていないか、志集を買った人はいないかと、ネットで調べていた時期がある。

そして2ちゃんねるで少しだけ知り得た内容は、真偽のほどは解らない。結局は謎が謎を呼んだだけであった。

以来、私の都市伝説として忘れようとしたのだけれど…

 

80年代。

私は新宿にある小さなソフトウェア会社で、プログラマーとして働いていた。

古いテレビのようなディスプレイは白黒で、言語はCOBOLの時代に。

お金のため、生きていくために入った会社だった。当時は選ばなければいくらでも仕事があった。

プログラミングを少々かじっただけの文系頭の私は、そこで全く使い物にならなかった。

なのにクビにもならなかったのは、バブル景気とイベントや商談の接待要員として少しは役に立っていたからだった。

特に商談相手が外国人の場合、私がお茶を運ぶと

「Oh! Japaneze doll」と喜ばれた。

仕事とも言えないような仕事をして、1日が終わり新宿駅に向かう。

乱立する巨大な高層ビル群。ギラギラとした都会のネオン。夥しい数の人間が新宿駅に吸い込まれていく。

そんな人混みの中をすり抜けて歩くのが、上手くなっていた頃だ。

その人はいつも新宿駅西口の小田急百貨店の前に立っていた。

おかっぱの黒い髪。

色白で、痩せていて、いつも白のブラウスに黒っぽいスカートのような質素な服装をしていた。

その人を初めて見たときは、まるで幽霊にでも出会ったようにゾッとして足が竦んだ。そこだけがぽっかりと異次元空間のようで、気味が悪かった。

幾つ位なのだろう?20代?私と同じくらい?

洋服が地味だから、30代にも思えるけれど。

童顔で化粧っ気のない顔は、10代のようにも見える。

とにかく、年齢不詳なのである。

首から下げたプラカードには美しい文字で

「私の志集」

と書いてあった。

詩集ではなく、志集でなければならないらしい。

直立不動で立ち、無表情で唇をきつく結んで、どこか一点を凝視していた。

そして物売りの体でありながら、周りを拒絶するオーラを出しまくっていた。

 

私は毎晩のように新宿駅でその人を見かけた。

今日もいる。今日も同じ格好だ。

道行く人々の誰もがその人をチラリと見ては、見なかったように通り過ぎてゆく。

今日はいない。

今日は…いた。

彼女は、清楚なタイプの美しい人だった。せっかくの美人なのに、いつ見ても固くこわばった顔で立っていた。

私は職場でその人の事を何度か話題にした。すると誰もが

「ああ、あの人ね。いつも夜あそこに立っているよね」と言い、それ以上の会話にはならなかった。

誰も私ほどは彼女に関心が無いのだ。私にはそれが不可解であった。

 

私が見る限りでは、志集は全く売れていなかった。

300円だったか500円か忘れてしまった。

好奇心、というよりも詩を読むのも書くのも好きだった私は

一体どんな内容の詩なのか、どの程度のレベルのものをお金にしようというのかが気になっていた。

勇気を出して、志集を買ってみたい。

なのに私はその人に、近寄る事すら出来なかった。

 

私のお給料は家賃を払い、デザイナーズブランドの洋服を買うと無くなってしまった。世の中はバブル景気に沸いていて、お腹がすいたと言えば誰かしらがご飯を食べに連れていってくれた。

髪をソバージュにして、真っ赤な口紅をして

歌舞伎町のディスコなど行きたくもないのに、誰かが行くと言えば行かない訳にいかなかった。

大音量の洋楽を我慢しながら私は、この時間にも駅前に立っているであろう彼女の事を考えていた。

 

自作の詩を、立ち売りする。

そんな風にして生きていたいのは、私だったのに。

 

志集を買ってみようかな。

私なんかに売ってくれるのかしら。

結局、私はその人に話しかける事は出来なかった。

新宿の会社を辞めて数年後、私は結婚し、新宿の病院で出産した。

赤ん坊を抱いて新宿に買い物に出かける事も多かったが、彼女は見つけられなかった。

 

会社員時代から20年以上過ぎた。

私は、この間もずっとお金がなかった。

生活のために、子供の教育のために、物欲のために心をなくして働いた。

心をなくした私に、詩など書けるはずもない。

お金、お金、お金が全てだった。

以前のようにお洒落する余裕もなく、年相応の中年女になった。

ある時、用事で出かけて遅くなり、帰宅ラッシュの時間帯に新宿を歩いた。

深夜の歌舞伎町をあんなに遊び回ったのに、20年も経つと一人で歩く夜の街は怖く感じられた。

そして、小田急百貨店の入り口に向かった時…

彼女が立っていた。

おかっぱの黒い髪。

白のブラウスで黒っぽいスカート。

あの頃とまるで変わらない、凜とした姿で。

彼女は少しも歳をとっていないように見えたので、私は鳥肌がたった。

そして、逃げるように立ち去ってしまった。

私が彼女を忘れていた20年の間にも、彼女は志集を刷り、雑踏に立ち続けていたのだ。

私が、たったひとつの詩も書かない間に。

 

 

彼女は何者になりたかったのだろう?

彼女の存在は、私以外の大勢の記憶にあるはずだ。

彼女はどんな詩を書いてきたのだろう。

これまでの人生全てを、志集に託して。