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文芸メイン、その他もろもろ

映画「あん」を観てきた母と私の物語⑤

母と私は、親戚の家を訪ね歩いた。

お彼岸だというのに、夏のような暑さであった。それでも赤トンボが飛び、道端には黄花秋桜や水引の花が揺れていた。

震災の年も、こうして母と並んで町を歩いたっけ。その時母は、臭くないかとしきりに聞いてきた。私は何ともないと答えた。

津波の水が引いて、瓦礫と汚泥を片付けた後も長い間悪臭が漂っていたのだと言う。

臭いとは感じなかったけれど、町中の道路の隅っこに硝子の破片がたくさん落ちていた。

私は自転車で町を見て回りたかったのだけれど、すぐパンクするからと母に止められたのだった。

実際に一台ある実家の自転車は、パンクしたままで放置されていた。

翌年には修理され、私はそれに乗って川と海の方まで行ってみたが、その自転車はフレームが歪んで錆びだらけな上、ブレーキがきかなかった。

今年も私がそれに乗って町を走り回るのだろうと、あのオンボロをわざわざ修理に出してあったのだが、今年は乗らなかった。

「お母さんのお相手、ちゃんとしなさいよ!」

という友人達の声が、耳に残っていた。

昔、そこにあったものは何もかもがもう無い。懐かしくもないただの町を、母と思い出話をしながら歩いた。

母の話は今と昔が混在して、それはいつの話?と聞かなければ訳が解らなくなった。

私自身もいろいろな事を、もう忘れてしまっている。

「モノやお金はあの世に持っていけないけれど、思い出は持っていける。思い出だけが宝物なのだ」と

夫の亡き祖母の言葉を、成る程その通りだなあと胸に抱いて生きてきたけれど。

その思い出さえ忘れてしまったら、本当に何にも無くなってしまう。

母と歩く道筋には楽しかった思い出など何もない。私はこの町にいた時、いつもいつも泣いてばかりいたような気さえするのだ。

私達は母の実家に向かった。母の弟である叔父もとうに亡くなり、私はその葬儀にも来なかった事が長年の後悔になっていた。

お線香をあげに行きたいと叔母に言い、お仏壇のある祖母の家に母と叔母と3人で行く事になった。

私が父と喧嘩をした時にいつも避難していたのが、この祖母の家だった。祖母は30年ほど前に亡くなり、この家に入るのは祖母の葬儀以来であった。

玄関の引き戸を開けると、当時新築して間もなかった家は古く汚れていて、時の経過を思わざるを得ない。

玄関からすぐの階段を上がった2階にお仏壇があるのだが、私は玄関の土間から動けなくなった。

叔母が「どうした?入って入って」と促した。

壁に取り付けてある下駄箱の蓋の、腕を高く伸ばした辺りに黒いマジックで線が引いてあった。そして、3.11と殴り書きがされていた。

「ああ、それね。そごまで水が来たって印を付けどいだーのす。」

ひゃー

母と私は悲鳴をあげた。私の実家は川の側であるのに奇跡的に水が来なかったのだった。

2階に上がると、そこは昔と何ひとつ変わっていない。違うのは定位置に祖母がいないというだけだった。

私は泣きたい気持ちを堪えてお仏壇の前に座った。

仏前には祖母と、叔父の写真が飾ってあった。叔父は、私の思い出の叔父よりも痩せた写真だった。

可愛がって貰ったのに、お葬式にも来ないでごめんなさい。

おばあさんも、ずっとずっと来なくてごめんなさい。

そう祈りたかったのに何も言えず、ただただ手を合わせるだけであった。

それでもお線香をあげる事が出来て、心の痞えがひとつ取れたからほっとした。

 

町はちょうど復興祭りで、これから踊りのパレードが見られるというので私達も見に行く事にした。

通りには人が溢れ、踊り子達が来るのを皆が待っていた。

誰かの「こんなに人がいるのを、初めてみた」と驚く声が聞こえた。

私は(えっ?たったこれだけの人で?)と思った。その時に、町並みは変わったけれども、私も随分と変わってしまったのだと感じた。

「盛岡さんさ踊り」と「仙台すずめ踊り」が賑やかに踊りながら通りを抜けていった。

「仙台すずめ踊り」というのを初めて見たが、本当に雀がチュンチュンと跳ねているような明るい踊りだった。母も手拍子を打ちながら喜んで眺めていた。

今でもこうして被災地に来て、元気付けてくれるのが本当に有難いなと思った。

東北から離れた所ではもう、震災があった事などすっかり忘れ去られているのに。

まだこれから「山形花笠踊り」が通るはずなのに、母はもう家に帰ると言いだした。

何かを楽しんでいる時でも常に、父の影に怯えている母だった。

母は若い頃から踊りが大好きで、本当は習いにも行きたかったのだ。でも父は「踊りなんか」と、母や踊る人達の事まで馬鹿にしていた。

夏になると近所の公園から盆踊りの曲が流れてくる。すると、もう行きたくて仕方がない母は

タンポポ行ぐべ、踊りっコさ行ぐべ」と私を誘った。

私は、行けば必ず後で父と母が喧嘩をするのが解っていたから、行きたくなかった。

そう言って断ると母はとても悲しそうな顔をした。そして

「後で喧嘩になってもいいから。行ぐべ」

と言うのだった。

 

 

 

もしも時空が歪んで、あの日いつものように祖母の家へと向かっていたなら…

私も津波にのまれたひとりになっていただろう。

それでも良かった。

私の分、もっと生きたかった人がひとり、助かれば良かったのに…