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映画「あん」を観てきた母と私の物語①

一昨年の事。

「Sさんの息子さんが書いた本コ、おめさん読まねーすか?」

と、田舎の母が電話をかけてきた。

Sさんというのは母の古くからの友人で、関西地方に住んでいる。

Sさんは、ものを書く人でもあった。Sさんの短編集を、昔読んだ事がある。

”Sさんの息子さん”というのはやはり何かを書いている人で、母はこれまでにも何冊かの彼の著作をSさんから戴いたが、無学な母には難解なのであった。けれども

「今度の本コは、読みやすくていいお話だがえ」

と熱心に私に勧めてきた。

当時の私は、訳あって読書を楽しむ心の余裕が無かった。母の話も軽く聞き流していた。

本の題名は「あん」だと言うので私は、主人公がアンという名前の外国人なのだろうと勝手な解釈をした。

そして、ハンセン病を扱った内容と聞いて、差別や偏見について書かれたという事だけは解った。

更に母は、私の母校の中学校にまで出向き、生徒さん達に読んで欲しいから図書室に置いて下さいと頼んで来たと話した。

流石に私は「それは余計な事」と咎めた。

訳の解らない婆さんがいきなり現れてそんな事をしたら、先生方はさぞ迷惑だろうと思ったのだ。それでも応対した先生は、母に丁寧な礼を述べて本を受け取ってくれたらしいのだが。

 

それから2年が経ち、母がまた電話で言った。

「Sさんの息子さんの本コが今度、映画になるんだぁど。凄いがねぇ。観に行きてえがねぇ。」

母は一人で映画を観に行く事など出来ない。私は今年の帰省を、地元での上映に合わせて計画を立てた。

ネットで上映スケジュールを調べると、田舎での上映は9月の後半から10月の初めまでと期間が短いのだった。

そして、タイトルはアンではなく餡この「あん」だった。

キャストも監督も豪華で、これなら大ヒットは間違いないだろう。

原作者はドリアン助川

 

えっ?

 

何十年も前から母に話しを聞かされていた”Sさんの息子さん”というのが、ドリアン助川氏だとこの時に初めて知った。

それでも私は、彼について殆ど知らない。

詩人なのかミュージシャンなのか?ラジオの深夜番組でブレイクした時に名前だけは覚えたけれども、その放送を聴いた事も無かった。母が

「自分には難しいけれど、おめさんなら読めるだろうから送ってあげる」

という本の数々も、本が溜まるのが嫌だからいらないと言って断ってきた。だから今までどのような作品を書いていたのかも知らない。

 

私は高校生の時に一度だけ、母と映画を観に行った事がある。

母がどうしても観たいというので付き合った。当時は映画館が街なかの、家から歩いてすぐの場所にあったのに今はもう無くなってしまった。

何年か前に出来た、少し遠くにあるショッピングセンターの中に劇場が入っているらしいが、行った事の無い母に何を聞いても埒があかない。

私は劇場に直接電話をして、上演時間や、席の確保などについて調べた。

もし「あん」を観る事が出来なかったら、帰省の意味が無くなるからだ。

往復の新幹線の時間と乗り継ぎの時間、映画の時間と駅までの移動時間…

足が弱って満足に歩けない母親。

母が家を空けるのを許さない、傲慢な父親。

ホテルのチェックアウトの時間。友人との待ち合わせの時間…

スケジュールを立てるのが本当に苦手で上手くいった試しがない私。

それでも兎に角母を映画館に連れて行かなければ。それは、私のミッションであった。

ああ、面倒臭いと愚痴をこぼすと、友人達が口々に

「そんな事を言わないで連れて行ってあげて。親孝行だと思って。」

と言った。友人達の親はもう亡くなっていたり、認知症だったりするので

「出来る事ならば私も、母と映画を観に行きたいよ。」

と言われれば、友人に申し訳なくて返す言葉も無い。

何が何でも、母を映画館に連れて行くのだ。

母と私にとっても「あん」がふたりで一緒に観に行く、最後の映画となるかも知れないのだから。